第3章 21世紀を自分らしく生きる条件とは

牛乳を飲み続けると骨粗懸症になる

 波動と言う言葉をよく耳にするようになってから、波動関連の書物も何冊か出版され、私も一通り目を通して来ましたが、いずれも物足り無きを払拭する事が出来ませんでした。
 現代科学では解明されていない分野の事ですから暖昧な部分も多く、結局「波動とは一体何なのか」という疑問が残ってしまうのです。そんな折りに出会った堀泰典先生は、21世紀がまさに波動の世紀である事を当たり前の事として受け止め、いち早く波動を「記憶生命体エネルギー」、「記憶情報エネルギー」、あるいは「記憶情報伝達エネルギー」と言うふうに定義付け、それに沿った研究を続けながら波動理論を取り入れた健康器具や化粧品、健康食品などの実用化に遭進されてきました。現代医学の医学博士でありながら東洋医学にも通じ、精神世界への造詣も深い先生にとって、目に見えない波動の世界を理解するのは決して難しい事では無かったのでしょう。話をお聞きする度に波動に対する私の疑問も解け、波動という自然の摂理に沿った生き方こそが、これからの人間には絶対的に必要なのだという確信を持つ事が出来ました。私がこう言う思いに至った先生との会話を、読者の皆さんにも是非聞いて頂きたいと思って1、2章の対談が実現した訳ですが、いかがでしたでしょうか。
 さて、ビッグバンの大元もうねりという名の波動であった事を考えると、波動は私達人類を含むあらゆる生体、あらゆる物質に最初から大きな関わりを持っていた事が解かります。太古の昔から、私達は波動と共に生きてきたのです。先人達は、自然の摂理である波動を本能的に大事なものだと知り、波動に従った生活を営んでいたに違いありません。そこには現代のような便利さは無いにしても、人々は知恵を出し合って自分たちの健康を守り、人間関係を平穏に保ちながら、充実した日々を送っていたのではないかと想像出来ます。しかし、ここ60年くらいで私達の生活は現代科学と共に飛躍的な変貌を遂げ、一見快適な暮らしを謡歌しているように見えますが、その陰ではおかしな事が数多く起こるようになってきました。人々は心身の病気に苦しみ、子供たちの心は荒廃し、環境は汚染されると言うふうに、様々な問題が一気に吹き出し、瞬く聞に全ての点でいわゆる頭打ちの状態になってしまいました。
 豊かさ、手軽さ、便利さの陰に噴出するこうした現象に気付きながら、その理由を深く考える事も無くさらに豊かな生活を追い求めようとする人達、彼らは、確固たる生き方が出来ないまま、何となくゆらゆらと彷徨さまよ流浪者のようだと表現したら言い週きでしょうか。
 なぜ、このような世の中になってしまったのでしょう。私が考えるに、エネルギーのバランスが崩れた結果ではないかと思うのです。宇宙と言う巨大なエネルギー体の持つ法則を、人はいつしか感じなくなり、あるいは感じようとしなくなったために、歪んだ記憶のエネルギーが発生し、それが環境、身体、心に歪みを作りやがて「大きな歪み」を作り出してしまったのではないか。つまり、波動を蔑ろにし、波動値を低下させるような生活に終始して来た為に、取り返しの付かないようなマイナスのエネルギーを生み出してしまったのではないかと思うのです。バランスは、相反する物が一対となることで保たれます。善と悪で一つ、男と女で一つ、プラスとマイナスで一つ、火と水で一つ、太陽と月で一つ、戦争と平和で一つと言うように、相反するエネルギーが一つになった時に調和が生まれ、新たなエネルギーを産出していきます。
 例えば、火と水を合わせればお湯になる。お湯は火でも水でもない、お湯と言う新しいエネルギーとなる訳です。砂糖と塩を合わせれば、砂糖の甘さだけではなく、塩の辛さだけでもない、新たな旨みという名のエネルギーが生まれます。このように、ベストバランスの上には新たなプラスエネルギーが作られて行きますが、バランスを欠くとどちらかの一方通行になり、良いエネルギーは生まれて来ません。火に火を注げば大火事になり、水に水を注げば洪水になるように、どちらに転んでもマイナスのエネルギーが増大するばかりです。私の専門とする食品栄養学の面から、その実態をお話ししてみましょう。皆さんは、崩れたカルシウム神話と言うのをご存じですか。年をとると、特に女性はホルモンの関係でカルシウム不足に陥りやすくなり、骨粗軽症になる人が増えてきます。そこで「とにかく牛乳を飲め」と言うカルシウム神話が生まれました。言うまでもなく、牛乳にはたくさんのカルシウムが含まれていますから、とにかく牛乳さえ飲んでいれば大丈夫と言う訳です。しかし、カルシウムはマグネシウムに付きもののミネラルですから、マグネシウムを摂っていれば自然に入ってきます。マグネシウムを多く含む穀類や濃緑野菜などを食べていれば、カルシウム不足にはならないのです。昔は、マグネシウム欠乏症の人は殆どいませんでした。が、今は非常に多い。つまり、カルシウムの足りない人だらけです。なぜだと思いますか。皆、牛乳こそカルシウムの宝庫だと信じ、穀類や野菜そっちのけで毎日がぶがぶと牛乳を飲んでいるからです。これが成長期の子供なら、文句はありません。どんどん飲んで、しっかりとした身体を造って欲しいと思います。ですが、大人になってまで「カルシウムを補給する為」に牛乳を飲み続けるのは、大きな間違いです。
 もし、骨粗鬆症の人が骨を丈夫にしたいと思って、牛乳にばかり頼ったとしたら、その人の骨粗鬆症は余計悪くなるばかりです。と言うのは、同じカルシウムやマグネシウムでも、骨に沈着したと言う記憶を持っている物と、持っていない物があるからです。牛乳のカルシウムは、相手が成長期の子供のうちなら骨に沈着しますが、ある時期から沈着しなくなります。骨の方から「もう、要らないよ」と放り出されてしまう、と言う記憶を牛乳は持っているのです。大人が牛乳を飲むと、その記憶が情報として骨に伝わり、骨は牛乳のカルシウムを放り出すと言う訳です。その時、ちゃんと沈着していたカルシウムまで取って出ていくので、タチが悪い。したがって、牛乳を飲むとかえってカルシウムが減る事になり、骨粗鬆症はいつまで経っても治らないと言う訳です。考えてもみて下さい。子牛は大人になっても母乳を飲んでいますか。ある時期になったら、母親の乳を飲むのを止めて草を食べるようになるでしょう。それはもう母乳を必要としないからです。草を食べた方が骨に良い事を本能的に知っているのです。ところが、人聞は大人になっても牛乳を飲む。誰かが「牛乳は絶対に良い」と言ったから、信じて飲んでいるのでしょうが、不必要な牛乳の摂取で結果的には病気を作っている事になります。骨粗鬆症の人や骨量の少ない人は、緑黄野菜やニガリで作った豆腐と魚の骨を食べるのが正解です。魚の骨はもろカルシウムが沈着して骨になったという記憶を持っていますから、食べれば確実に骨を強化できます。
 堀先生は、「牛乳のカルシウムも、魚の骨のカルシウムも現代科学では同じカルシウムで違いは認められない。しかし、「記憶生命体エネルギー」が違い、これが大切な事」だと言われます。また、「昨今骨折をする子どもが多くなりましたが、牛乳が良いのであれば骨折する子どもは少ないはずだ。私が子どもの頃には殆どいなかった。また、禅の修行僧は牛乳、乳製品は元より肉も食さずに野山を修行の場とされているが骨折をされる方は殆どいない。この現象はマグネシウムを主体とする食生活により骨の強化が起こると考えられる」と述べられております。

化学物質をとり続けていると、ある日突然……

 カルシウム神話のような事は、健康補助食品にもそのまま当てはまります。何かの栄養素が欠乏すると、人には辛い症状が出てきます。例えば、カルシウム不足による骨粗鬆症もそうですし、鉄欠乏による貧血なども女性に多い症状でしょう。私はそういう方たちに、健康補助食品の活用も含めて欠乏している成分を出来るだけ吸収しやすいような食べ方を指導したりしますが、問題は症状が改善された後のことです。貧血が治ったとすると、血色は良くなり疲れ方も全然違ってきます。
 本人はとても元気になったと実感し、健康補助食品のありがたさを痛感するのでしょう。そして、再ぴ貧血にならない予防策として、その後もずっと健康補助食品を手放さない人が非常に多い。しかし、それは非常識なことです。貧血という病気が治ったのなら、補助食品の助けはもういらないのです。あとは、毎日の食事で鉄分を多く摂るように心掛ける事が大切なのであって、人工的に作られた健康補助食品を使い続ける理由はどこにもありません。
 これは堀先生からお聞きした話ですが、天然のビタミンCと人工的に作られたビタミンCには、明らかな違いがあると言います。成分的にはいくら分析しても一緒で、どちらもアスコルビン酸には違いないのですが、細い光を当ててみると、天然のビタミンCは右に光が屈折し、人工のものは左に屈折するのだそうです。まるっきり同じ成分なのに、なぜ、光は右と左に分かれてしまうのか。先生は、それを「記憶の遣い」とし、「そう考えなければ説明が付かない」と言っておられます。成分は同じでも記憶が異なる、とすれば、人工的に合成された健康補助食品を摂り続けると、身体の中の記憶が変わっていってしまう事になります。その意味でも、体調を取り戻したら補助食品から離れるべきだと思うのです。健康食品や健康器具の「奇跡的に身体が良くなります」という宣伝文句はやたらと目に付きますが、「身体が良くなったら使用を止めましょう」などと言う一文はどこにも見当たりません。その辺が消費者に誤解を与える落とし穴の一つになっているのではないかと思いますが、落とし穴にはまって苦しむのはあなた自身です。これがもし、身体に溜まりやすい指溶性ビタミンのAやDやKを主体とした健康補助食品なら、摂り続ける事で今度は過剰症になってしまう危険性もあります。
 堀先生との対談でも、医療機器の認可を受けている健康器具を使い続けた為に、新たな病気を作っている人の多さに驚いていますが、身体に良いと言われる事もやり過ぎれば害になる。何事も過ぎたるは及ばざるが如し、と肝に銘じて頂きたいものです。しかし、最大の落とし穴は化学添加物と言う化け物にあると私は思っています。人類が二足歩行を始めてから200万年とか言われていますが、私たち日本人が食品中の化学物質を食べ続けてきた歴史は、戦後しばらく経ってからの事。長くても50年くらいのものでしょう。明治、大正、昭和初期に生まれた人たちは、食べたくても食べられなかったのが化学物質入りの食品です。現在は化学物質の入っていない物を食べる方が難しいし、これを全否定すると食生活そのものが成り立たない時代です。朝食にハム1枚食べても、一緒に結着剤やら保湿剤やら亜硝酸塩などが体内に入ってきます。1年に数回食べるくらいなら問題も無いでしょうが、これを何年も何十年も続けて常食していれば、必ず身体のどこかに歪んだ情報が蓄積され、ある日突然、細胞に決定的な変異が起きる可能性が無いとは誰にも断言出来ません。極微量とは言え、長期に渡って化学物質と言う名の異物が入り続ければ、その異物の出す情報と身体本来の持つ情報との聞に衝突が起こり、それが癌などの病気となって現れるのではないかと思うのです。
 その時になって、「あなたの食べ続けたハムやソーセージがいけなかった」と言う医者はどこにもいません。化学物質が身体に良くない物であるという認識はあっても、体内での因果関係も解からないし、そう言い切れる根拠も無い。また、個人個人の体内情報も異なりますから、全ての人が癌になるはずもありません。と言う事で、結局はうやむやになってしまうのがオチでしょう。しかし、現代の食生活が一つの良くない方向に進んでいる事は確かです。
 中でも、社会問題になっている環境ホルモン物質の影響には、かなり深刻なものがあると思わざるを得ません。外国では、食牛を飼育する段階で女性ホルモンのエストロゲン類似ホルモンを注射する事が多いようですが、こうして出来た牛肉を成長期の男の子が食べたとしましょう。成長期の男子は、セルトリー細胞が精子を作る準備を始めています。そう言う時期に、食品からとり込まれた女性ホルモンに出会うと、「成長しても精子を作らなくて良いのですよ」と言う情報が女性ホルモンから発信され、女性ホルモン優位の環境が出来てしまいます。セルトリー細胞の方は「そうか、精子を作らなくても良いのだな」と言う記憶を持つ為に、その男子が成人しても十分な精子は作られず、女性を妊娠させる事が出来ません。その上、性格的にも女性化すると言うのです。え、ホント? と思われるかもしれませんが、これは今や世界的にみられる傾向として数字の上でも確認されている事です。1996年、イギリスのBBC放送が放映した番組の内容は、まさに驚くべきものでした。医学者が1950年代生まれの男性の精子を調べた所、1ccあたり1億個を下回る人は殆どいなかったのに対して、1970年代生まれの男性では平均して7500万個しかなかったと言うのです。わずか20年で精子の数が25%も減ったと言う事は、単純に計算して1990年代生まれの男子が成人した時には1cc当たり5000万個しか無いと言う事です。WHOの基準では、1ccあたりの精子数が2000万個を下回ると生殖機能を失うとされていますから、本当に怖ろしい事です。日本のある大学医学部でも20代の学生30人を対象に調べた所、精子数が5000万個以下の人が殆どだったそうです。この原因が全て食品中のエストロゲン類似物質にあるとは言えません。が、合成されたエストロゲン類似物質は、食品以外の殺虫剤や化学肥料、洗剤、各種プラスチック容器などの日用品にもふんだんに使われています。これらの物から染み出してくる微量な環境ホルモン物質も、長期間に渡ってジワジワと私達の身体を浸食して来た事は間違いの無い事実です。そして、私達の身体に蓄積した化学物質は大きく歪んだ記憶情報エネルギーとなり、健康な細胞を攻撃し始めているという構図を想像するのは私だけでしょうか。
 人は、失う事によって初めて大切な物に気付くと言いますが、私達ももうこの事に気付なければならない時期に来ていると思います。波動と言う目に見えない極微量のエネルギーが、積もり積もってやがては世界を左右する程の力を持ち、我々の個人生活にも少なからず影響している事を、はっきり知るべきだと思うのです。例え科学的に証明されていなくても、波動の世界を受け入れざるを得ない所まで追い込まれているような気がします。このまま、目に見えない世界は実在しない物だという意識で生活していると、今以上に不可解な現象が発生し、人類はそうした現象に押し潰されてしまうのではないかと言う危機感を私は覚えます。すでに、何かがおかしいと気付いている方も決して少なく無いと思いますが、実際にはどのように改善して行ったら良いのか解からない、と言う人が殆どではないでしょうか。しかし、その方法は意外に簡単なのです。

正しい情報選択の能力を磨こう

 家庭でも手軽に利用出来る医療機器や、身体に良いとされる人工的な健康食品の落とし穴にはまりやすい人は、酷な言い方かもしれませんが情報を正しく処理出来ない人だと思います。
 そう言う人にとっては、おいしい言葉を並べ立てて消費者を欺くような売り方をする方が悪い、と言う事になるのでしょうが、正しい情報を選択出来なかった自分自身にも弱味があった、とは思えませんか。また、知識人がこう言っていたから間違い無いと思い込む人も少なくありません。これも問題です。例えば「胃ガンの原因は○○だ」と言う学説を立てた学者がいたとして、あなたは「あ、そうか。なるほどね」と、大きくうなずくタイプですか。それとも「胃ガンになったから○○が増えたのではないか」と、逆説を頭に浮かべるタイプですか。言うまでもなく、落とし穴にはまりやすいのは前者のタイプでしょう。知識人と言うのは、様々媒体を通して学習した事実を伝える事においては優秀かも知れません。しかし、それが真実かどうかは解からない。なのに、偉い先生が言う事だから間違い無いだろうと、盲信してしまうのは非常に危険な気がします。知識と知恵、学歴と学力は似て非なるものです。現代は、知識が豊富で学歴の高い人がたくさんいて、人から尊敬される対象になっているようですが、本当に尊敬されるべき人は学力と経験を元に知恵を育んだ人ではないか、と私は思っています。その違いは何かと言うと、一つには社会が必要とする物は何かを見極め、それをきちんと学んでいく能力を持っているかどうかだと思います。つまり、客観的な視野に立って物事を考え、体験を通して具体的に学んでいける人こそ尊敬に値する人物だと思うのです。
 学歴は中卒でも、知恵と学力のある人は大成します。昔は中卒の会社創業者も珍しくありませんでした。逆に、優秀な人は中卒で十分なのかもしれません。堀先生も、中学校までの勉強をきちんとやっていれば、大人になっても大体の事は理解出来るはずだと言います。最近は大学生の学力低下が問題になっていますが、これは学歴偏重社会の中で起きるべくして起こってきた当然の結果ではないでしょうか。話がそれてしまいましたが、要は知識人の出す情報を鵜呑みにすると、思わぬ落とし穴にはまる事があるので注意しましょう、と言いたかった訳です。同時に、皆がそう言っているから私もそう思う、と言うような多数の論理に組み込まれない事も大切です。今は個性化の時代と言われながら、人と同じ事をしていないと不安で仕方無いと言う若者も多く、裏を返せば、皆と同じ事をしていれば安心と言う訳です。これを拡大解釈すると、皆が落とし穴にはまっているのなら自分も一緒にはまっても良い、皆と一緒なら安心だと言う事にはならないでしょうか。意識するしないに関わらず、実はこのような考え方をする人が一番多いのだと思います。そして、こう言う人たちが先頭に立って豊かさ、手軽さ、便利さを求めてきた結果が、現在の状態です。付和雷同と言う言葉がありますが、訳も無く人の意見に賛成しておいて、理由を聞かれると「皆がそうしているから」と、涼しい顔をしている。外務省の役人の水増し請求問題が表面化したとき、「どの部署でもやっている事だ」という、信じられないような内部の声があったと聞きます。彼らにとってはそれが常識であり、悪い事だという認識はなかったのでしょう。立場や年齢に関係なく、ここまで付和雷同の精神が広がっている国は珍しいかもしれません。これが日本と言う国の体質なのでしょうか。
 そんなふうに考えるとちょっと寂しくなってしまいますが、私は諦めていません。日本人には堀先生のように優秀な人が少なからず埋もれておられると信じたい気持ちですし、戦後の復興時に見せたように、新たな方向が定まった時に発揮する日本人の集中力は大変な物だと思っています。ともあれ、現代に生きる私たちが今最も必要としているのは、正しい情報を選択する能力を養い、身に付ける事です。それが出来ていないと、この情報社会の中で自分自身の健康を守って行く事すらおぼつきません。昔のように情報が少ない時代とは異なり、今、私達の生活空間には目に見えない電波が無数に飛び交っているのと同じように、無数の情報が洪水のように流されています。このような中で正しい情報を選び出す行為は、極端に富えば大海で小舟を見つけ出すようなものかもしれません。それが面倒だから、誰かの意見に従っていれば良いと言うのでは、自分はもちろんの事、大切な家族も守る事が出来ないでしょう。その方が確かに楽ではありますが、問題が起きた時に責任を取れないような生き方は、歩けば歩くほど目的地が遠のいていくもどかしさと背中合わせで、どこまで行っても真の充足感は得られないのではないかと思います。自分で考え、自分で行動し、自分で責任を取る生活こそ、情報社会に生きる為の必須条件だと思うのですが、いかがでしょうか。
 それには、裏付けとなる知識が必要です。知識は得たいけれど努力するのはイヤだ、と言っていたら話になりません。糖尿病は治したいけれど食生活は変えたくない、というのと同じで、何の解決にもなりません。人の受け売りではなく、独自に考え、勉強した結果の知識を蓄える事です。
 例えば健康サンダルは、足の裏のツボを刺激して身体に良い影響を与える、と言う知識に間違いはありません。しかし、毎日履き続けるものではない、と言う知識を持たなければ、健康サンダルに関する知識は完全ではない事になります。一回履いただけで「イテテッ」と唸ってしまうほど刺激の強すぎる物を、毎日朝から晩まで履いているのはおかしい、身体に悪いのではないのかと言う疑問を持ち、自分なりに研究して、時には有効だが長く使うのは有害である、と言うふうに結論付ける事が出来たら、その人の情報処理能力はグンとレベルアップしたと言えましょう。あるいは、疲れてどうしょうも無い時に磁気マットレスに寝ると気持ち良い。それはなぜかと言う知識を持つのは必要ですが、これを布団代わりにして毎日使ったらどうなるのだろうと考え、毎日利用するとかえって身体に新たなストレスを生む、と結論付けられればその人の情報処理センスは確かだと言う事になります。宇宙エネルギーの法則はバランスであると前述しましたが、良い事と悪い事で一対とするならば、良い面の陰に悪い面があるかもしれない、と言う疑問を持って対応するのがバランス感覚ではないでしょうか。
 良い面は黙っていても耳や目に入ってきます。ある製品のメリットは10個もあって、その1つひとつが素晴らしい物だったとしても、どこかにデメリットが存在している可能性はあります。提供する側はこのデメリットを全く伝えないか、ごく控えめな表現や小さな声でほんの少し伝えるかのどちらかだと思います。ほんの少しでも伝えるだけ良心的だとは思いますが、その小さなデメリットが将来的に致命的なデメリットにならないとも限りません。そのような微弱なデメリットにこそ、鋭敏に反応するべきだと私は思います。ただし、何に対しても批判すれば良いと言う事ではありません。きちんと結果の出ている物に対しては敬意を払う、と言う気持ちを忘れないで下さい。
 小さなデメリットを見つけて「こんな物はダメ。バカじゃないの」と言うのではなく、そのデメリットが身体にどれほどの影響を及ぼすのかを冷静に分析し、デメリットの影響を受けない使い方があるなら、それで良しとする事も必要だろうと思います。そう言う反応が自然に出来るか出来ないかが、本当に健康になれるかなれないかの分かれ目、つまり、健康サンダルを1週間に1回、短時間だけ使用する人と、のべつまくなしに使用している人の差になって現れるのでは無いかと思う訳です。
 堀先生は「健康サンダルでは体全体の体重がサンダルの出っ張りに当たります。この刺激は強すぎて、毒虫に足の裏を刺されたと同じような刺激として脳に伝達されます。そうすると脳は毒を体内に回す事が無いように、筋肉を収縮させて血液やリンパ液の循環を阻害するのです。これが全身の筋肉のネットワークを介して全身の慢性筋肉疲労に発展する事になります。つまり、強すぎる刺激は余計に筋肉の疲労を助長する事になる」と言われます。
 ここで間違って頂きたく無いのは、適度な刺激は体に大変良いと言う事です。つまり、ドクター・サン™シリーズは太陽の光の中にもある、月の光の中にもある、星々の輝きにもある、マイルドで身体に良い刺激の6~12µmの波長域の育成光であり、エネルギー源を自分自身の体温や外気温に求めている為に過剰な刺激になる事は一切無く、副作用は全く無く、良い面しか無いと言う優れもので、どのように使用しても身体にとって良い物で、車で言うアクセルとブレーキが付いているような物なのです。このような物がそうそうこの世に存在する事はないと思います。ある意味では神の領域もしくは奇蹟と言えなくもないでしょう。私が知る限り、必ず裏と表があり、それでバランスが取れている訳ですが、多くの場合はアクセルはアクセル、ブレーキはブレーキとして独立して働きます。しかし、その物の良い面と悪い面の両方を熟知していれば、それをうまく使いこなす事が出来ます。デメリットがあっても致命的な物で無い限り、使い方次第では画期的な効果を得られる物もあるのです。
 誤解の無いように言いますが、健康サンダルにしても磁気マットレスにしても、磁気膏薬にしても、牛乳や健康補助食品にしても、身体に何らかの影響を持つ事は明らかです。が、その使い方次第では、身体にとって良い物にも悪い物にもなり得ると言う事です。そして、健康器具などを選択する責任の半分は、使用者自身にあるのではないか。「知らなかった」の一言で済ませるのは、現代に生きる人間として未熟過ぎるのでは無いか、と言う私の考え方を解かって頂けたでしょうか。

子供には右脳を刺激する教育を

 繰り返しが、まず自分なりの知識を持つ事です。そして、情報処理が的確に出来るように訓練する事。この商品は長く使う物では無いと判断したら、キッパリと捨てる勇気を持つ事も必要でしょう。例えば「これは高かったから、良い物に違い無い」と言う前提で見てしまうと、その後に正しい情報が入って来たとしても、その人は無意識の内にその情報をブロックしてしまいます。人は、自分に都合の悪い事は見えないし聞こえないものだからです。
 そうならない為には、堀先生が言っていたように、魂を清く保ち、常に正しく物事を見極めようとする心を持つ事が大事なのかも知れません。情報は「情けに報いる」と書きますが、私はその前に「人の」と言う2文字を加えて「人の情けに報いる」ものと解釈し、人の情に報いて行かない物は情報とは呼ぶべきでは無いと思っています。情報を発信する側は金儲けの為だけでなく、基本的に多くの人々の生き方を良くする為の情報を出すべきでしょう。以上のような条件が整って初めて、私たちは身体の中に正しい記憶を刻んだエネルギー、つまり、良い波動を持ったエネルギーを入れて行く事が出来るのだと思っています。では、実際に波動を高める事の出来る生活とはどんな物なのか考えてみましょう。基本的には、自分の脳が喜ぶような事をすれば波動値は上がると思います。ただし、脳が喜ぶ事と、自分がしたい事とは少し違います。自分は1日中寝ていたいと思って3日も4日も家で寝ていたら、会社の席は無くなるでしょう。買い物が好き、だからと言って1日中買い物をしていたら、後で必ず請求書の山が届きます。また、ビールの好きな人が冷たい生ビールをキューッと1杯。ジョッキ半分くらいを一気に飲み干す瞬間はとても楽しい事でしょう。しかし、脳は全然喜んでいません。ガクンと下がってしまった体温を正常に戻す為に、体内では大変なシステムが作動する事になり、忙しくてたまらないからです。一体何が楽しいんだ、と脳は文句を言っているに違いありません。しかも、調子に乗って飲み過ぎれば、その人自身も翌朝は頭痛や腹痛に苦しむ事になります。
 このように、やりたい放題にやっていたら、結果的に自分も楽しめないし、脳も喜びません。やりたい放題にやる事と自由にやる事とは遣います。本当の自由には節度と責任が伴うはずです。行動する時には節度を守り、何か事が起こったら責任を取ると言う意識を持てば、自由にやっていても自然に人はきちんとした生き方を目指すようになります。そして、そういう生活が一番楽しいと感じるものなのです。また、日本の教育現場などでよく見られる事ですが、善悪だけで物事を決めていくと、やはり脳は喜ばないでしょう。
 ハンガリー出身の数学者、ピーター・フランクルさんは、日本人の子供についてこう語ったそうです。算数が解けないと、すぐに参考書を見て答えを合わせようとする、と。日本の子供たちはプロセスが解から無くても、参考書に頼って答えだけを合わせようとする。つまり、帳尻だけを合わせようとする訳です。ピーターさんが小学生の時、算数の問題がどうしても解けない事があり、ずっと家の中で考えていたそうです。考えて、考えて、考え抜いた末に「あ、そうか!」と解かった。すると、今まで解けなかった問題も全て解かったと言います。嬉しくなったピーターさんがその喜ぴを母親に伝えると、母親が「おまえは天才だ」と言って褒めてくれたそうです。その後も同じような事を繰り返しているうちに、ピーターさんは三度のメシよりも算数を解く方が好きになっていたそうです。日本の母親なら、まず「どうして学校へ行かないの」と問い正したでしょうし、問題が解けないのなら「学校へ行って先生に聞きなさい」と言ったのではないでしょうか。ピーターさんのお母さんのように、一生懸命算数を解こうとしている息子を黙って見守ったり、解けた喜びを伝えに来た息子に、最高の褒め言葉をかけてやれたとは思えません。
 学校へ行かないのは悪い事である、という一点に因われてしまうと、本人の自主性や集中力は評価出来なくなってしまいます。事の善悪を盾にして親が怒ったり、一生懸命に解いてもあまり喜んでやらなかったりすれば、子供は「なーんだ、勉強なんかおもしろく無いや」と思ってしまいます。
 もし、母親がピーターさんのお母さんのような反応を見せていたら、日本の子供も算数を解くプロセスが好きになっていたと思います。左脳より右脳が優位に働いている子供のうちに、もっと右脳を活性化させるような教育が行われれば、子供は遊びのように勉強を楽しみ、将来的には左脳と右脳のバランスも良くなると私は考えています。しかし、右脳を鍛えておかなければいけない時期に、左脳優位型の理屈から入るような生き方、あるいは善悪を判断基準にした律儀な生き方を押し付けてしまうと、子供は自分にとって、本当に楽しい事を見逃してしまう可能性があります。高校生くらいまでの堀先生は、普通の子がやらないようなヤンチャな事をよくやっていたと聞きます。それはまさに、右脳を刺激する生き方だったのではないかと思いますし、親御さんの理解も大きかったのでしょう。
 堀先生が指輪やブレスレットなどを開発したのも、柔軟な発想力があったからこそだと思いますが、先生は人の健康に役立ちたいという目標にそって、論理に終始する事なく、具体的に効果のある物を現代の科学を超えた所で作り出してきました。他のドクターとは一線を画す自由自在、且つ繊細な現在の先生が作られた要因は、子供時代の生活環境に負う所が大だと思うのです。目先の楽しさに惑わされる事なく、脳の喜ぶ事を選択しながら波動を高めてきたのではないでしょうか。さらに言えば、右脳を刺激して波動を高める教育環境にあった為に、長じて右脳と左脳のバランスの良い人物になり得たのではないかと感じるのです。
 最近はいわゆる「良い子」が多く、親の手もあまり煩わせないようですが、見方を変えれば何を考えているのか解からない、と言う子供が多いのではないでしょうか。しかし、親の目の届かない所ではキレやすかったり、逆に落ち込んで自分の殻に閉じこもってしまったりする場合が少なくないように思います、私はその原因を右脳と左脳のバランスが崩れている為ではないかと考えています。そして左脳と右脳のバランスの乱れは、そのまま波動のバランスの乱れに繋がっていると思っています。
 バランスを失えば、当然なんらかの歪みが出てきます。例えば、癌と言う病気は性格的に大変真面目な人や、怒りっぽい人に多いと言われます。このタイプには、ガンの原因の一つであるストレスが溜まりやすいからと言う訳ですが、怒りっぽい人はともかく、なぜ、真面目な人がと不思議に思う方もいるでしょう。単に、真面目な性格なら良いのですが、上にクソが付くほどになると真面目の限度を超えてしまいます。つまり、バランスを失っている訳で、こう言う人は自分に厳しいと同時に、人にも厳しい。人がちょっとでもいい加減な事をすると「なんだ、アイツは!」となって、心中穏やかでいられません。と言う事は、いつも怒っている人と何ら変わらないと言う事です。いい加減な人は、他の人がいい加減な事をしても腹を立てません。「あ~あ、あんなことやってるよ」と、笑っていられます。それが良いとは言いませんが、世の中はいい加減な人よりも、真面目過ぎるくらいの人の方が良しとされているのではないでしょうか。しかし、その良い人の方が早く死んで、いい加減な人の方が長生きをする。皮肉なものです。真面目過ぎたり、いい加減過ぎたりすると「過ぎた」分だけ記憶の歪みが生じ、その歪んだ記憶が体内に伝達されて少しずつ蓄積され、やがて病気の土壌を作り出してしまうのではないかと思います。
 また、腰掛けて足を組んだ状態を思い浮かべてみて下さい。見るからに左右の身体のバランスが崩れているでしょう。いつも同じ足の組み方をする人は、それだけが骨盤が歪んでいきます。骨盤が歪めば背骨が曲がり、背骨が曲がれば偏頭痛の一つも起きて不思議は無いと言う訳です。1回や2回足を組んだからと言ってそんな事にはなりませんが、この癖を長年続けていればその年数分だけ歪んだ記憶の情報が蓄積し、やがて大きな歪みとなって症状に現れます。身体に対する矛盾が生じる、と言っても良いかも知れません。なぜ、私達は長い年月をかけて、正常に生まれた身体を壊すような真似をしなければならないのでしょうか。
 そこには食生活、地球規模の自然環境、社会環境、人間関係など、様々な原因が隠されていると思われます。したがって、ある一面だけを改善してもなかなか解決出来るものではありません。私達は、考えられるあらゆる面を視野に入れ、総合的な見地から波動を高める為の生き方、考え方をする必要があると思うのです。

羊の群れから抜け出す努力を

 一旦エネルギーのバランスが崩れてしまうと、波動値を上げようとしてもなかなか上がりません。前述したように、生活のあらゆる面からの影響を受けてその人固有の波動が形成される訳ですから、多面的に改善して行かなければ波動も上がりようが無いと思います。心の持ち方や健康管理、さらに霊的な事まで含めて、現在の波長域から脱却するには、まず情報処理能力を高める事が先決だと言いましたが、考え方をデジタルからアナログへ切り替える事も大切でしょう。全ての事柄には必ず原因があって結果がある、と言うのが世の中の摂理ですが、現代人は原因よりも結果にばかり拘る傾向が強いように思います。結果だけに拘ると、次に必ず新しい原因を作る事になります。その新しい原因はまた新しい結果を生み、新しい結果に拘るとまたまた新しい原因を作り……と言う具合に、どこまで行っても新しい原因を作り続けてしまいます。
 例えば、胃が痛くなると誰でも不安になります。痛みがすぐに消えてしまえば良いのですが、しばらく続いたりとすると不安はますます膨らみ、胃癌だったらどうしよう、死んじゃうのかな、などと考えているうちに、それが新たなストレスとなって本当に胃癌を誘発してしまうようなものです。本当は、夕べ食べ過ぎたのが原因かもしれないし、寝冷えをしたのがいけなかったのかもしれません。記憶を辿って思い当たる点があれば不安を感じ無いで済みますし、原因が解からなければ病院の検査を受け、問題が無ければ不安からも開放されます。しかし、結果に拘る人の多くは、記憶を辿る前に全く根拠の無い不安を飛躍させ、勝手に問題の種を撒いてしまうのです。これも、デジタル化社会に仕掛けられた落とし穴の一つではないでしょうか。現代に生きる私達は、結果だけを利用して生活する事に慣れきっています。物の氾濫する消費社会では、家で使っている電気製品が壊れても、直すより新しいのを買ったほうが安上がりだと考えます。いちいち分解して故障箇所を確かめようとする人は少ないですし、製品自体もコンピュータ化されていて素人の手には負えません。
 そういう生活の中で、結果から原因を辿ると言う考え方すら、私達は忘れてきてしまったようです。一つのモノ(=結果)にも、それを作ろうとした人の意識(=原因)が入っています。しかし、結果だけに拘ると、そこに込められている人の意識にまで思いが至りませんから、モノを粗末に扱うような風潮も生まれます。それは日常の人間関係にも影響してくるのではないでしょうか。相手の表面的な言葉や行動には敏感に反応するけれども、そこに秘められた相手の気持ちは察する事が出来ない、と言う事になりかねません。自分のプライバシーは守るのに、相手のプライバシーには土足で立ち入る人が多いのも、その現れではないかと思うのです。
 戦前の日本には国家の大きな流れみたいなものがあって、その流れに逆らう人間は良くないとみなされていましたが、戦後は世の中が大きく変わり、何においても自由が叫ばれるようになりました。自由である事が個性のように言われてきましたが、前述したように本当の自由には節度と責任がつきものです、しかし、日本人は突然得た自由をやりたい放題にして良いのだと勘違いしてしまった節があります。時代は変わっても、世の中の摂理は変わりません。なのに、不変の摂理をも無視するような勝手な解釈がまかり通るようになり、またそれも個性として許すような環境を作ってしまった感があります。そして、誰も責任を取ろうとしない責任者不在の国家が出来てしまいました。人々は与えられすぎた環境の中で、はっきりとした判断基準を持つ事なく、今も優柔不断な生き方に終始しているような気がします。かけがえの無い命と言いながら、かけがえの無い命に値する生き方も、考え方も出来ていないと思うのです。
 病気になれば、いとも簡単に大切な身体を医者に預け、医者は「全力を尽くして手術は成功したのですが……」と、胸を張ります。手術は成功したが命は無かった、なんて冗談じゃない。私なら「ふざけるな」と言いたい所ですが、「ありがとうございました」と言って、医者に頭を下げるのが一般的な常識ではないでしょうか。「何かが間違っています。」この何十年の間に、日本人は物言わぬ羊の群れにされてしまったような気がします。羊の群れは何百匹いようと一人の人間と何匹かの犬で管理することができます。そして、群れの中の羊はお互いの傷を舐め合いながら右往左往し、いつかこの群れから逃げ出そうと思って隙を狙っています。ですが、例え脱出に成功しても狼に襲われて皮を剥がれ、肉を食われて一巻の終わりです。群れから離れたら将来もありません。なぜかというと、一匹で生きて行くだけのエネルギーを失って、波動が低下してしまっているからです。小学生や中学生が当たり前のように携帯電話を持ち歩き、街のあちこちに自動販売機があり、タクシーのドアはすべて自動という、世界でも珍しい「自由」な国で生活するうちに、これが世界の標準だと思い込むのも無理はありません。しかし、ひとたび日本という群れから離れれば、すべての価値観は簡単にひっくり返ってしまうでしょう。日本と他の国では生活や考え方の次元が異なる訳ですから、そうなって当然です。日本と言う温室の中では考えもしなかった事が突然起これば、誰でも戸惑ってしまいます。そうなってから「こんなはずではなかったのに」と、愚痴っても始まりません。私達は今のうちに、同じ波長域にある羊の群れから脱出出来るように準備をし、脱出してもちゃんと生きていけるようにしておく必要があるのではないでしょうか。
 波動を高めて羊の群れから飛び出す事に成功したら、今度はライオンのように夫婦や家族単位できちんと生きていけるようになっていて貰いたいと思います。常に自ら判断を下し、その判断に自信を持てるだけの情報処理能力を身に付け、まず自分と家族の健康を守って行く事から始めてはどうでしょう。全ての日本人がそうやって波動レベルを上げて行けば、付和雷同的では無い国家、確固たる意識を持った国家に変貌すると思うのです。とは言え、歪んだ記憶のエネルギーはこの数十年間の蓄積で増大化しています。これを追い出し、正しい記憶を持つエネルギーを新たに獲得して行くには時間も掛かるでしょう。しかし、自然の摂理に合った波動の大切さに気付きさえすれば、後は波動値を上げて行く事が楽しくなるに違いありません。波動を高め、自分自身を高めていく事には上限は無いと思います。逆に言うと、これからは正しい記憶・正しい情報無くしては、自分自身を高めていく事が出来ないと言っても過言では無いでしょう。