脳卒中について「脳細胞は分裂増殖しない」

 脳にはいろいろなタイプの細胞がありますが、代表的なものは神経細胞(ニューロン)とグリア細胞です。グリア細胞は脳の毛細血管で運ばれてきた栄養素を神経細胞に渡し、神経細胞が円滑に機能するように働く補助的な細胞です。神経細胞は生後は分裂増殖しませんが、グリア細胞は終生分裂増殖をくり返しています。そのほかにアストロサイトと呼ばれる細胞などもあります。
 ニューロンには大きく分けて2つの型があります。1つは双極性ニューロンといい、細胞体の両側に1本ずつの軸索(長い突起)を伸ばした型のニューロンで、これは末梢神経にあります。脳にあるのは多極性ニューロンといい、細胞体から多数の樹状突起を伸ばして、他のニューロンから情報の伝達を受けるとともに、1本だけ軸索を伸ばし、その先がいくつもに分岐して次のニューロンへ情報を伝達するような型のニューロンです。別のニューロンから情報を受けるにせよ、他のニューロンへ伝達するにせよ、情報の伝達が行われるところはシナプスという微細構造を作っています。ここはわずかに間隙があり、情報は神経伝達物質によって伝達されます。こうして情報はニューロンの間を次々に流れ、脳は神経細胞同士の複雑なネットワークにより構築されています。
 脳の神経細胞は生後は分裂増殖しないのが大きな特徴ですが、なぜでしょうか。脳はものを考えたり記憶したり、判断したり、喜怒哀楽を表したり、大変高度な機能をもつ器官です。そのためには、成長とともに神経細胞同士のネットワークが複雑に構築され、過去の出来事が記憶として蓄積されていきます。ところが、もし神経細胞が分裂増殖するとしますと、それまで営々として築き上げてきた神経細胞のネットワークをまた1から構築し直さなければならず、過去の記憶も消えてしまう可能性があります。
 これではとても高度な機能を行うことはできません。そのため神経細胞は死ぬまで入れ替わることはないと考えられます。しかし、そのおかげで長い年月の間に、少しずつ神経細胞のネットワークが構築されていき、記憶を積み重ね、思考、判断力が高まり、高度な精神機能が保持できるようになっていくのです。
 このように、一度変性あるいは死滅した神経細胞は二度と生き返りませんから、脳卒中や痴呆に対する治療法は、残された神経細胞の活動をいっそう高めて、失われた神経細胞の働きを代償してやることが中心になります。
 例えば、ここに8個のシナプスを作っている神経細胞の突起があるとします。そのうち4個のシナプスが失われたとしますと、その機能は半減することになります。しかし、新たに4本の突起を伸ばし、新しく4つのシナプスができれば、失われた分を取り戻すことができます。これが神経細胞の「可塑性」といわれるもので、神経細胞自身は生きていてシナプスの数を増やすことをいいます。あるいはシナプスの伝達効率が高まることを指します。
 私たちの脳は生まれてから学習をくり返すことによって、神経細胞が可塑性をどんどん高めていって、知能が発達するのです。もし神経細胞に可塑性がなかったら、いくら学習しても知識や経験として残りません。したがって、脳卒中や痴呆に対しては、脳の可塑性を高めることが第一の治療法といえるでしょう。
 しかし、脳の機能の再編成ができるとしても、それにはいろいろの条件があり、それによって回復の度合いが違います。若い人ほど脳の回復は良い、脳の壊れ方が小さいほど回復が早い、脳のどこが壊れたかで回復の仕方が違うなどを考慮にいれなければなりません。では、脳の働きが障害を受けて痴呆におちいる原因にはどのようなものがあるでしょうか。大きく分けて4つあります。

  1. 脳器質性障害=これはさらに二つに分けられます。一つは脳梗塞や脳出血などの脳血管障害で、脳の神経細胞に栄養や酸素が送られなくなり、神経細胞が死滅するために起きる痴呆です。日本人にはこの痴呆が多いのが特徴です。もう一つは脳内神経細胞の退行変性疾患による痴呆で、アルツハイマー型痴呆がその代表です。欧米人に多いタイプです。
  2. 腫瘍性疾患=脳腫瘍などにるものです。
  3. 他臓器疾患=内分泌性障害には甲状腺、副甲状腺、下垂体などの機能異常があり、代謝性障害には肺機能不全、心疾患の低酸素症、慢性腎不全による尿毒症などかあります。
  4. ストレスによる身体疾患=生物ストレス(感染、寄生虫)化学ストレス(アルコール・各種薬物・金属などによる中毒、ビタミン欠乏症、透析脳症)物理ストレス(外傷性疾患)精神ストレス(心身症、自律神経失調症)

 痴呆症の改善薬の開発は各研究機関で調べられていますが、とくに東大薬学部では脳神経細胞の生存、再生、機能を促進する薬物の評価を行っています。脳の神経細胞は試験管の中で培養しても死ぬ一方ですが、その死滅スピードを遅らせるものはないか、生存させれないか、一度損傷させた突起を出したりシナプスを作らせたりするつまり再生できないか、神経細胞の機能を高めるものはないかなどを調べています。
 もう1つは「長期増強」の研究です。人の記憶には脳の海馬というところが重要な働きをしていますが、この海馬には長期増強という現象が見られます。これはある刺激に対してシナプスの伝達効率が長時間、著しく増大する現象で、記憶学習の基礎過程で重要な役割を演じているのではないかということから、現在、世界中の脳研究者が精力的に研究しています。これに役立つ薬物を探索し、実験動物を用いて研究されています。

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