幼稚園から大学卒業までのエピソード

幼稚園児(5歳)の時のエピソード
近所の家の庭に琵琶の木があった。
幼稚園の友達3人と琵琶の実を盗んだところを持ち主に見つかり、親に言わないように頼んだが、母親に連絡されていた。
その夜、母親が「泰典、お母ちゃんに言うことないか?」と聞かれ、
「ないよ」と言うと、
「琵琶のおいしい季節やな、何か言うことないか?」と再び聞かれ
琵琶の実を泥棒したことを告白すると、
一緒に謝りに行こうと近所の八百屋に菓子折りを買いに行き、
夜道を琵琶の家に向かって歩き出した。
その時、道の真ん前に満月が見られた。
その月を見ながら「どんな人生でもいいからお月様をまっすぐ見られない人生だけは歩まんといてよ」と言われた。
「このことが、人生の根本を決めていたように思う」と述べている。


三重県四日市市泊町 出身。実家で産婆さんに取り上げてもらう。父親は三重県庁の公務員。
少年時代から不真面目で忘れ物は群を抜いて多かった。同調性がなく、落ち着きがなく、授業中も着席していることができずに動き回ったり、常に体を動かしたり、衝動的で急にしゃべり出したり、他人のやっていることに唐突に介入するために、先生から一日に何度も注意を受けているような子供であった。
今でいう、注意欠陥・多動性障害(ADHD)の代表ともいえる。
今では子供のときに見られた顕著な多動性や衝動性は一見目立たなくなっているが、待たされた時などにイライラしたり、怒ったりしてて落ち着かない。人の話を最後まで聞くことができず、さえぎって一方的にしゃべってしまったりするような形で現れている。
人以上に感情を抑える努力をしていたが、人と同調できないのであれば人が同調して来るように自分がトップに立てばよい。との考えをいつの間にか持つ。(出る杭は打たれるが出た柱は打たれない)をモットーになる。

小学校1年に入学する頃には「死後の世界」の事ばかりを考えていた。「なぜ人間は生まれ、何故死ぬのか? 死後は無になるのか? 魂は残るのか? 輪廻転生は存在するのか? 輪廻転生が存在した場合人間は人間に生まれ変わるのか? 天国と地獄は存在するのか? どのような生き方をすれば天国へいき、どのような生き方をすれば地獄へいくのか? そのような死後の世界の事ばかり考えて死を恐れて小、中学時代を過ごした。
小、中学校の同級生には1人の友達もおらず、みんなの会話が子供過ぎて馬鹿に思えたからで、なぜこのような幼稚な人々と一緒に居なければならないのか? と悶々とした小学、中学時代をすごす。
小学4年生の時にスカート捲りをして担任に親が呼び出しを受ける。
その際に、母(典)が担任に「スカート捲りは悪い事かも知れないが、先生も女性に興味があるでしょう。息子が女性に興味を持ってくれていてよかった。男性に興味を持っているよりも私は嬉しい。嘉代ちゃんには私の方から謝っておきます。しかし、この忙しい時にしょうもない事で呼び出ししないで下さい。」と担任に意見した。
小学生の頃は落ち着きがないいつも動き回っている子どもで、今、私が小学生なら、多動性障害で神経内科に放り込まれていることでしょう。
私は多動性障害が悪いとは私は思えないのです。というより元気が有り余っていると私は理解しています。
周りの友人を見ても今の多動性障害と思われる人物の方がある意味出世している方が多いように思うのです。

中学は地元の四日市市立南中学校に入学し、剣道部に所属した。平素の素行が悪く、部活の隣が体操部で何か悪いことが起こると体操部の顧問の宮崎先生が「また堀君がやったのね」と総て堀のせいになった。
当時は四日市高校、津高校、伊勢高校、桑名高校、神戸高校、松坂高校、上野高校が三重の進学7校であった。そこで、進学は地元で優秀といわれる四日市高校を受験したいと申し出るが、当時は内申が50%と当時の試験が50%の配分だったらしく、担任(蒔田先生)が「仮に試験で満点を取っても内申で落ちるのが関の山だから、四日市高校には内申書はかけない」と言われ、どこなら書いてくれるのかと尋ね。「神戸高校なら書いてやる」というので、神戸高校に入学する。

高校時代はゴルフの練習場を母の堀 典が経営しており、毎日、ゴルフの練習に明け暮れ、それなりに上手くなったが、そのせいもあり、学校にはあまり行かなかったし、教科書は学校の机の中に入れっぱなしで、ガバンの中には弁当箱だけが入っていた。
学校に行っても概ね抜け出して中華料理屋の珍華亭の裏の部屋でたむろしていた。入れ代わり立ち代わり常時10人ぐらいが入れ替わりでいた。
当時は校風があってないような自由な校風であったことは間違いない。
しかし、何故か1年は無事に2年に進級するも、2年から3年に進級する際、出席日数が足らず試験を受けてない科目があり仮進級で3年に進級した。3年のある日、久しぶりに学校に出ていくと3学期の中間試験が半分済んでおり、2年から3年に仮進級のため留年といわれる。
この時が人生で一番焦ったと言っている。

この時、すでに死後の世界の数式化(方程式)をライフワークにしようと海外留学をすることを決めていたが、卒業できないことになり海外留学を諦めることになる。
その後、担任(鴛海先生)に日参した結果、医学部か歯学部に行けば学校の進学率が上がる(昭和48年(1973年)から始まった第一次オイルショックの次の年で、医学、歯学のランクが大幅に上がった年である)ので、そうなれば私の首をかけても卒業させてやると言われた。
そこで、当時、昭和49年(1974年)2月1日に岐阜歯科大学が日本で最初の医科、歯科系で最初の受験であった岐阜歯科大学に入学することになる。

鴛海先生の教え「群れに居て群れから飛び出せ」、社会人になってからの宴会芸「たにし踊り」をお教え頂いた。
物理の担当であったが物理をまともに教わった記憶はない。
大学では少林寺拳法部に入るが5年に時に辞める。
大学入学当初から少しずつ始めていた「記憶生命体エネルギー」の研究を本格的に5年生の時から公衆便所を回り、尿を大量に集めだし水の記憶の研究を開始する。中部経済新聞の連載の記事の水についての原型を考え出すことになる。
これが後の指輪(ファビオ ランボルギーニ ダン リング)の開発につながる。

大学では1年の時は教科書を購入するが、2年は購入せず、3年は購入しないと進級できないとのうわさがあり、3年時の教科書を購入する。親からは教科書代をもらうが4年、5年、6年は教科書を1冊も購入しなかった。
大学にはノートと本は持っていくことなく、枕と時としてシャーペンだけを持って通った。シャーペンを忘れる時も多く、出席を取るときの名前を記入する際は隣の友人から借りることも多く、向かって左の奥に留年された先輩方が集まっておられその中に紛れて授業中は寝ていた。大学に寝に行ったのか勉強しに行ったのか分からない大学生活であった。
当時、堀が2人いた。一人は髭を生やしていた堀正彦で「ヒゲホリ」、もう一人の堀泰典は「アホリ」と呼ばれていた。それほど勉強はしなかった。
試験の時には霜田吉見、西川光也、千葉敏子の3人に助けられ、カンニングと要領でクリアして卒業した。
国家試験の前には、K教授の授業では「昨日夢を見た・・・が試験に出るとの夢を見た」など、また、別の歯学部に行っていた友人からも2日前に試験問題ずばりの情報が流れてきた。今では考えられないほど国家試験の問題が流れてきた。そのお陰で第67回歯科医師国家試験に合格した。(歯科医籍登録 No.81649号
ここからは想像であるが、私と同様に1956年生まれ以前の医学部、歯学部のある一部の卒業生は勉強をほとんどせずに免許を所得した同輩、先輩は少なからずおられるはずである。
年々厳しくなり、私より5年ほど年下の先生方は猛勉強されている先生が多いように思います。
24歳の人間として恥ずかしすぎる人生で、決して褒められた学生生活ではなかったため、このまま社会人になってもいいものかと思案しながら階段を上っていくと、当時、最も厳しいと言われていた寺崎 太郎 教授が担当されていた口腔病理の竹内 宏 助教授が降りてくるのと出会い、「竹内先生、大学院生、取りますか?」と聞くと「取るよ」との返事で大学院受験を決めるが、入学できず、「どうして落ちたのか?」と聞くと、当時の寺崎 太郎 教授が「僕は大学院生を取らないよ」と言われ、「竹内先生がとると言われていましたが」と言うと、「竹内君が言ったことで私は言っていない。主任教授は私だ」との事であった。
そこで、常勤で研究する立場を選んだ。常勤研究生と言う制度が初めて岐阜歯科大学に誕生することになった。

その後、毎日の様に教授室に呼ばれ、寺崎教授から「堀君、実力とは何ぞや!!」と1か月ほど問われ、勉強して培うものだと思います。と答えると、「それでは、いつまでたっても君は二流、三流だよ」といわれた。
そうこうして、半年が過ぎた10月に、また同じ質問をされた。参ったなと思い黙っていると、寺崎教授が「実力とは人がちょっとやそっとでは真似できないものを持って実力という」ノーベル賞、ウルフ賞、ブレークスルー賞、ガードナー国際賞など、その他に他人に感謝される学問をすることだ。と言われた。
当たり前のことだが、さぼってノンベンだらりと生きてきた堀には「生きる目標ができた」瞬間であった。
それまで、勉強のべの字もしなかった堀がそれから猛勉強を始めた。
その後、11月に助手になった。そのころから、段々と教授と准教授の間が険悪になり、お互いがお互いの文句や悪口を言いだし、その板挟みに会うことになり、徐々にストレスがたまり、パニック障害を起こす。
当時まだパニック障害という概念は少なく、病院では気のせいだと行くところ行くところで言われた。
しばらくして寺崎先生が退官され、竹内助教授が教授に昇格された。この約5年の間に38編の論文に関与した。当時、日本の歯学部の若手では最高の論文数であった。
ある日の金曜日、ふと竹内教授では物足りないな~と気が付いた。次の日の土曜日に実家に帰り日曜日を丸一日悩み、月曜日の朝に退職願を出した。2日後の水曜日が学位審査日で審査日の2日前に辞表を出し辞職した。
みんなが、たった2~3日を我慢して、学位(博士)をもらってから辞めればいいのにと言われたが、当時は学位を頂いたらお礼奉公を2年~3年はしなければならないという暗黙の了解があったために、不義理をして後ろ指をさされたくないとの思いで、学位を諦め、お礼奉公の2年~3年の時間は多分、時間の無駄だと思い口腔病理学教室を辞めたが後悔はない。
この5年間に得たものは、寺崎教授の教えが後の堀の学問の基盤を築く教えとなった。
すぐに、免疫電顕の巨匠の一人、昭和大学医学部第一解剖学教室の中井 康光 教授の門をたたき免疫電顕をお教え頂いた。
昭和大学医学部第一解剖学教室の中井 康光 教授に厳しくご指導いただいたおかげで、自分の学問を確立する大いなる手助けとなり、教授のご指導の下、1997年6月12日に乙第1746号、博士(医学)を取得した。
その後、臭覚の世界的権威の明海大学歯学部口腔生理、外崎 肇一 教授のもとで、2005年3月25日に歯乙第504号、博士(歯学)を取得した。
日本で最も早く作られた昭和大学薬学部毒物学の大家の吉田 武美 教授のもとで、2007年12月20日に乙第2571号、博士(薬学)を取得した。
日本で医学、歯学、薬学の博士を取得した最初の人物となった。
次が息子の堀 元英が同じく博士(医学京都大学)、歯学(東北大学)、薬学(昭和大学)で博士を取得している。
もう一人、3つの博士の取得者は京都大学再生医科学研究所 生体組織工学研究部門生体材料学分野 田畑 泰彦 教授が工学、医学、薬学を取得されている。(2022年1月現在)

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